バカの壁

ほんとにいまさら、ですが。読んでみた。
まとめる。読み終わってからざっと読み返して、頭に残ったこと。
一言でまとめると、「バカの壁」っていうのは、つまり「考えることをやめた瞬間」ということだ。
この人は「わかっている」というの怖さについてずっと語っている。何事もそんな簡単にわからない。わかるってのは知ってるってこととは違って、たとえば「テレビで見た」「新聞で読んだ」だけではわかってることにならないし、知識があるだけでもわかってることにはならない。でも、それを「わかっている」と思ってることが怖い。
常識ってのは雑学ではない。世界が違えば常識も違う。世の中というのはそもそも不確かなものだし、人も常に変わっていく。諸行無常
知るというのは自分が変わること。何かを知ることによって今までと全く同じ世界も違って見える。その繰り返し。
意識ってのは「共通了解」を求める。身体というのは元々みんな違って個性的なものだから、逆に意識は共通のものを求める。人と話すとき、そこには暗黙の了解みたいな基盤があって、その上で会話が成り立つ。共同体、社会も同じ。だから、個性が個性がなんて言わない。個性なんてはじめからあるんだから、それよりももっと重要なことがある。人の気持ちをわかること。常識をわかること。そっちのほがよっぽど大事だ。
身体、脳を動かさなきゃいけない。考えることをやめてはいけない。

どういう社会なり共同体が私たちにとって望ましいのか、またはどういう状態を幸福だと感じるのか

一方で、宗教なんかは唯一絶対のものがあるから強い。それは普遍だから。でも日本人の多くはそういう普遍原理は持ってない。でも、「人間であればこうだろう」くらいは考えられる。人間であれば、親しい人を殺すかという話になって、それはしないだろう。くらいは言えると。

安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中にすむことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。

人と人のみならず、共同体と共同体。会社と会社。国と国。
最後にまた引用。

徳川家康は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と言いました。(中略)人生は家康型なのです。一歩上がれば、それだけ遠くが見えるようになるけれども、一歩上がるのは容易じゃない、荷物を背負っているから。しかし身体を動かさないと見えない風景は確実にある。
・・・
知的労働というのは、重荷を背負うことです。(中略)それはわかる、わからないの能力の問題ではなくて、実は、モチベーションの問題です。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)